2012年7月18日水曜日

6月23日(土) 6日目

第6日目 6月23日(土)  猪苗代湖 → 会津若松



5:00 起床
実は00:00、3:00にも目を覚ましている。概ね20:00には就寝するとこのパターンが多い。そんなときにはNHKの「ラジオ深夜便」を聞く事が多い。これはファンがたくさん居るらしい。

寝袋やマットをたたんでパックして、トイレを済ませると、何と小雨が振り出した。これでは話しが違う。今日の好天を信じて、ここに2泊したのに、こうなれば雨があがるまで出発はするまいと決める。

今日の予定は30㌔程度の会津若松で、観光が目的、しかも標高差で200~300㍍の下りなので、全く急ぐ必要はないのだ。

撤収作業も終り、積み込みも済み、コーヒーなどを飲みながら空を眺め、様子見をするうちに雨が上がり、キャンプ場の係員も勤務を始める8時になった。

キャンプ中に発生したゴミの処理を事務所に依頼して出発。

昨日も立ち寄ったサイクリングセンターでおにぎりを食べて、猪苗代湖の西端の辺りのセブンイレブン(8.8㌔)で食料を買い込んで、

10:00 12.8㌔ 
少し先の 運動公園でカフェオレとおにぎりの2回目の朝食をとる。この辺りが標高550㍍で今日のコースの最高点だと思われる。

その後はしばらくほぼ平坦な高原の道が続き、19㌔付近で「磐越自動車道」を潜った辺りからは快適な下りが待っていた。この時はヘルメットを着用。ヘルメットは今回を入れても7~8回しか被らなかった。長い下りの際と剣呑で長いトンネルを抜ける時だけの着用なのだが、実用の意味より、「気合を入れる」という自戒の意味が強い。

11:00 飯盛山到着
気分としてはアッという間に飯盛山の下に着いてしまった。

(市街を走った航跡)

もちろん会津若松といえば「白虎隊」となる。長い石段を登り、隊士を祀ったお堂や墓地に参拝し、彼らも眺めたであろう城下の景色を堪能してから、会津若松城見学に向かう。





この城は戊辰戦争の戦場となり、相当傷んでその後天守閣などは取り壊され、現在の天守閣は昭和40年に鉄筋コンクリートで再建された物だと言うが、何とも姿の良い天守だ。なんでも、下の写真のアングルがベストらしい。(と、ガイドが言っていた)なお、天守閣には登っていない。料金が惜しいのではなく、内部構造に興味がもてないからです。念の為。


城郭内に、往時にもそこにあったという「麟閣」という茶室が移築・現存し、これは蒲生氏郷がらみの遺構なので当然拝観し、冷茶とお菓子をいただき、お庭の風情をゆっくりと観賞した。

この会津若松は保科(後松平家)が幕末まで宰領していたのだが、その基礎の城つくり、街つくりは氏郷がおこなっている。幕末の当主松平容保公には興味をもつが、それ以上に、この蒲生氏郷という武将には好感をもっている。もっと長生きしていたら(多分)日本史が少し変わっていたかもしれない。
で、当然のことながら氏郷の墓所(供養搭)に参った。何とも姿が良い。

さて、目的の観光を終え、ソースカツ丼の昼食が済むと、まだチェックインには早いが宿泊先を探さなければならない。事前の調査はしていない。

上の市街地での航跡を見て欲しい。城見学の後、駅の方にホテル探しに行った航跡だ。このような時、普通は駅前の「観光案内所」に行って情報をとるのが普通なのだろうが、私はあまりそれをしない。そこでは「筋目正しい(つまり料金の高い)」ホテルを紹介されがちで、「とにかく安いホテル」をというリクエストをしにくいのだ。つまらない見栄を張るものではないとは思いながらも、自分の勘で安ホテルを探す事が多い。

ところが本日に限って中心部のホテルで3軒続けて「満員」で断わられた。その3軒目で理由を聞いてみると、東北地方の高校生のバスケットボール大会期間中という事だ。さあ、困った。

と、その時、飯盛山から市中に入る時に確かホテルを見かけたような記憶が浮かび、そのかすかな記憶を頼りに、午前中に通った道を目指した。その程度まで繁華街から外れれば、まあ、大丈夫だろうと信じつつ…。

そこにあったのが、下のホテル。

なんとOKの上に4200円で2食付くというではないか。もうその味などどうでも良い、探した苦労の甲斐があったというものだ。

15:00 チェックイン。
明日は新潟までの長丁場が待っている。深夜には、かの地で再会予定のクラスメート、Kクンとも連絡がついたし、良い一日だった。

走行距離 39.1㌔ 最高速度 45㎞/h 走行時間 2:58 平均速度 13.1㎞/h


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